弘誓山 観音寺 縁起(詳細)
天台宗 弘誓山 観音寺は、比叡山延暦寺を総本山とする天台宗の古刹です。
千百六十余年にわたるその歴史は、度重なる苦難を乗り越え、
法灯を守り抜こうとした先人たちの不撓不屈の歩みそのものでもあります。

大正5年の御開帳の様子

紅白の百日紅(勝央町町木)
一、草創と慈覚大師による開山
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慈覚大師 円仁
当寺の始まりは平安時代、第三代天台座主であり、最後の遣唐使としても知られる慈覚大師円仁(じかくだいし えんにん)に遡ります。 天安年間(857~859年)、円仁によって間山(はしたやま)の地に建立されたと伝えられています。一説には当時の名刹・高福寺の一院であったとも言われ、往時の隆盛が偲ばれます。
御本尊は、奈良時代の高僧・行基菩薩(ぎょうきぼさつ)の御作と伝えられる「聖観世音菩薩」です。この尊い御本尊を安置していることから、古来より「観音寺」の寺号を称して参りました。
二、中世の災厄と「観音面」の記憶

観音寺御詠歌の歌碑
その後、間山での不慮の火災により、寺地を田井観音免(現在の勝央町田井)へと移します。しかし天文14年(1544年)、未曾有の大洪水が当寺を襲いました。 この災厄により、御本尊こそ奇跡的に難を逃れたものの、草創以来七百年にわたって受け継がれてきた宝物や古文書の多くが流失し、堂宇は荒廃。詳しい盛衰の記録も失われてしまいました。 しかし、旧寺地は今も「観音面(かんのんめん)」という地名として残り、当時の寺影を今に伝えています。
伝承の御詠歌
「経塚の しるしの松の 夕嵐 絶えぬ御法の 声かとぞ聞く」
この歌は、かつての繁栄をしのばせる貴重な証として、今も大切に詠み継がれています。また、当寺が美作観音霊場三十三ヶ所第五番札所に数えられていることも、この長い歴史の証左と言えるでしょう。
三、慶長の再興と中興の祖・円慶

現在の本堂
現在の植月東の地へと移転・再建されたのは、江戸時代初期の慶長5年(1600年)のことです。 先師・実観の遺志を継いだ僧円慶(えんけい)が、荒廃していた寺を中興。円慶を「中興開山第一世」として仰ぎ、以来四百二十年、三十一世にわたり、一度も絶えることなく法灯が 受け継がれています。
四、名僧・泰禅の遺徳

泰禅木像
第十一世住職を務めた泰禅(たいぜん)は、「作州の名僧」として後世に名を残しました。隠居後も長尾山金光坊をはじめ多くの寺跡を遺すなど、その活動は広範に及びました。 本寺には、泰禅が心血を注いで整えた「大般若経六百巻」や、その姿を写した「泰禅木像」、そして「爪髪塔」が大切に安置されており、今日でもその徳を仰ぐことができます。
本寺に伝わる泰禅上人の木像を拝見すると、前歯が一本欠けていることに気づかされます。これには、上人の慈悲深さを物語るある逸話が残されています。
かつて、子供がいたずらで投げた石が、上人の口元に当たってしまいました。前歯が欠けてしまうほどの出来事でしたが、泰禅上人は決して怒ることなく、それまでと変わらぬ穏やかな笑顔でその子供を許したといいます。
この木像は、その時の姿をそのままに写したものと伝えられています。欠けた前歯は、単なる損傷ではなく、上人が体現した「寛容と慈悲の心」の証。今もその微笑みは、訪れる人々を優しく包み込み、「許し合うことの大切さ」を静かに語りかけています。
五、近代教育のゆかりと片山潜
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片山 潜
明治時代に入ると、当寺は地域の教育の拠点としての役割も担いました。 明治8年(1875年)から14年まで、本寺を仮校舎として植月小学校が開校されました。特筆すべきは、後に世界的な労働運動指導者となる片山潜(かたやません)が、若き日にここで教鞭を執っていたという歴史です。 仏教のみならず、地域の近代化と教育にも寄与してきたことは、当寺の誇るべき歩みの一つです。
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