観音寺の歴史
千百余年の時を越えて
地域とともに歩んできた祈りの寺
弘誓山観音寺は、寺伝によれば、平安時代初期の天安年間(857~859)、比叡山第三祖・慈覚大師円仁によって開かれたと伝えられています。
長い歴史の中で、火災や洪水による被害、寺地の移転など、幾度もの困難を乗り越えてきました。そのたびに御本尊と寺を守り、再興を重ねてきたのは、歴代住職と地域の人々の信仰の力でした。
観音寺の歴史は、寺院だけの歴史ではありません。
人々が祈り、学び、集い、支え合ってきた、地域の歩みそのものでもあります。

大正3年5月の御開帳の様子

紅白の百日紅(勝央町町木)
一、草創と慈覚大師による開山
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慈覚大師 円仁
観音寺は、もとは現在地より離れた間山にあり、高福寺の一院として創建されたと伝えられています。
御本尊は、行基菩薩作と伝わる聖観世音菩薩です。
山号の「弘誓山」は、「すべての人々を広く救おうとする仏さまの大きな誓い」を意味します。
草創期については、『勝央町誌』『植月村誌』『東作誌』など、それぞれの文献に異なる記述が残されています。
間山から田井へ移ったとする説、初めから田井にあったとする説などがあり、詳しい経緯は明らかではありませんが、古くからこの地域に観音信仰の霊場があったことがうかがえます。
二、中世の災厄と「観音面」の記憶

観音寺御詠歌の歌碑
寺が田井にあった時代、天文13年(1544)の大洪水によって、堂宇や文書、宝物などを失ったと伝えられています。
現在も田井周辺には、「観音免」「観音面」と呼ばれる地名が残り、かつて観音寺があったことを示す手がかりの一つと考えられています。
また、付近には経塚があったとする記録もあります。経塚とは、仏教の経典を後世に伝えるため、経典や経筒などを地中に納めた場所です。
こうした地名や伝承からも、田井の地に長く観音信仰が根づいていたことが想像されます。
三、慶長の再興と中興の祖・圓慶

大正3年の観音寺全景
慶長5年(1600)、沙門圓慶は、先師實観の遺志を継ぎ、現在の観音寺裏山に伽藍を築きました。
この場所は、現在「植月寺山古墳」と呼ばれている前方後方墳です。
圓慶は、観音寺を再興した僧として、「中興開山第一世」とされています。
その後、寛永8年(1631)には祖師堂が建立され、天台宗を開かれた伝教大師最澄と、観音寺の草創に関わる慈覚大師円仁の像が安置されました。
四、火災を越えて守られた御本尊

本尊厨子
寛文年間の初め、観音寺の堂塔は火災によって焼失したと伝えられています。
このとき、第四世圓耀が御本尊の聖観世音菩薩を奉じて持ち出し、御尊像は火災を免れたとされています。
寛文6年(1666)には本堂が再建されました。
その後、江戸時代中期に、本堂は古墳上から現在の場所へ移され、庫裏、客殿、鐘楼、弁天堂などが整えられました。
慶長5年の中興から約二百年をかけて、現在の観音寺につながる伽藍の基礎が形づくられていきました。
五、名僧・泰禅の遺徳

泰禅木像
第十一世住職を務めた泰禅(たいぜん)は、「作州の名僧」として後世に名を残しました。隠居後も長尾山金光坊をはじめ多くの寺跡を遺すなど、その活動は広範に及びました。 本寺には、泰禅が心血を注いで整えた「大般若経六百巻」や、その姿を写した「泰禅木像」、そして「爪髪塔」が大切に安置されており、今日でもその徳を仰ぐことができます。
本寺に伝わる泰禅上人の木像を拝見すると、前歯が一本欠けていることに気づかされます。これには、上人の慈悲深さを物語るある逸話が残されています。
泰禅上人は、決して人に逆らわず嫌な顔をしなかったという。常にニコニコしている人を今でも「泰禅さんのようだ」と敬称している。
津山で用事をすませ河面の峠まで帰って一休みしていた上人に、津山へ帰る馬子が通りかかり「津山まで乗ってくれないか」と頼んだ。上人は嫌な顔をせず心よく乗ってやり、再び津山から夜道を植月に帰ったという。
年老いた上人に、村人はからかい半分に「これは上人様に食べて貰おうと持って参りました」と硬い炒り栗を差し出した。その時上人の前歯が一本折れたが、嫌な顔をせずおいしそうに食べたといわれる。
黒土の細い田圃道を上人が歩いている時、反対側から意地悪な人が通りかかり、上人を田圃に突き落とした。上人は泥まみれの身体を起こしニッコリと「ケガはなかったかね。」と相手に尋ねたので、さすがの意地悪な人も赤面し上人に平伏したという。
『美作霊異奇蹟鈔』(寺坂五夫著)
この木像は、その時の姿をそのままに写したものと伝えられています。欠けた前歯は、単なる損傷ではなく、上人が体現した「寛容と慈悲の心」の証。今もその微笑みは、訪れる人々を優しく包み込み、「許し合うことの大切さ」を静かに語りかけています。
六、仁王門と金剛力士像

現在の仁王門
観音寺の仁王門には、高さ約2.3メートルの一対の金剛力士像が安置されています。
口を開いた阿形像と、口を閉じた吽形像が、寺域を守るように立っています。
仁王像の詳しい制作年代や由緒は明らかではありませんが、台座の裏には寛政9年(1797)の修復に関係すると考えられる記録があります。
力強い姿の仁王像と、特色ある造りの仁王門は、観音寺を代表する貴重な歴史遺産です。
七、近代教育のゆかりと片山潜
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片山 潜

植月校跡の碑
明治8年(1875)7月15日、観音寺を仮校舎として植月小学校が開校しました。
現在地に新しい校舎が完成するまでの約6年間、観音寺は地域の子どもたちの学びの場となりました。
明治11年から12年頃には、後に社会運動家として知られる片山潜が、植月小学校の助教を務めています。
片山潜は、自伝『わが回想』の中で、植月で学びながら教えた日々や、校長の大土井清之助から親切に指導を受けたことを記しています。
観音寺は、祈りの場所であるとともに、地域の教育を支える場所でもありました。
八、戦争中の学童疎開

疎開児童記念樹碑
昭和20年(1945)、第二次世界大戦の影響により、神戸市立菊水小学校の児童約60名が、観音寺へ集団疎開しました。
児童たちは、観音寺で約1年間の生活を送りました。
戦争という厳しい時代の中、観音寺は子どもたちを受け入れ、暮らしと学びを支える場所となりました。
この出来事も、観音寺が地域や社会とともに歩んできた歴史の一つです。
九、近現代の観音寺

観音寺全景
昭和から平成にかけて、観音寺では、本堂、客殿、庫裏、仁王門などの修繕や改築が重ねられました。
昭和45年には仏教婦人部が結成され、寺院奉仕や社会奉仕に取り組みました。
昭和60年には総代会会則が整えられ、檀信徒とともに寺院を支える組織の基盤がつくられました。
平成期には、仁王門の全面改築、本堂・庫裏の改築、納骨堂や合葬墓の整備などが行われています。
観音寺は、古くからの信仰と文化を守りながら、時代に応じた寺院の役割を大切にしています。
観音寺の主な沿革
年代主な出来事
天安年間(857~859)慈覚大師円仁による創建と伝わる
天文13年(1544)大洪水により堂宇、文書、宝物などを失う
慶長5年(1600)圓慶により現在の観音寺裏山に中興
寛永8年(1631)祖師堂を建立
寛文6年(1666)火災後、本堂を再建
宝永6年(1709)弁天堂を創建
江戸時代中期本堂、庫裏、客殿などを現在地へ整備
寛政4年(1792)鐘楼を再建
文政9年(1826)中門を再建
明治8年(1875)観音寺を仮校舎として植月小学校開校
明治11~12年頃片山潜が植月小学校助教を務める
昭和20年(1945)神戸市立菊水小学校の児童約60名を受け入れる
昭和45年(1970)仏教婦人部結成
平成25年(2013)慈覚大師1150年御遠忌法要
平成28年(2016)本尊開扉、本堂・庫裏改築落慶
平成29年(2017)合葬墓、納骨堂を整備

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