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観音寺の歴史
History of Kannonji

比叡山延暦寺を本山とする当寺は、1165年の歴史をもち、行基菩薩(ぎょうきぼさつ)の御作、
聖観世音菩薩を御本尊として安置しているところから,「天台宗 弘誓山 観音寺」という。
平安時代の天安年間(857~859)、比叡山第三祖慈覚大師(じかくだいし)によって、
間山に(高福寺の一院としての説がある)創建された。
その後(年代不詳、間山では火災説がある)、田井観音免(地名)に移転したが、
天文14年(1544)大洪水に遭い、御本尊以外の宝物・古文書等を流失し、建物は廃頽した。
このため草創以来七百有余年の盛衰については詳らかではないが、
田園化した田井寺跡は現在「観音面」の地名で残っている。
また、寺盛の面影を偲ぶ次の御詠歌が、今に伝えられている。
『経塚のしるしの松の夕嵐絶えぬ御法の声かとぞ聞く』
本寺が美作観音霊場三十三ヶ所第五番となっていることは、かかる寺歴からもうかがわれる。
現在の地(植月東)には、慶長五年(1600)、
先師実観の遺志を継いだ僧円慶によって移転築造された。
以来円慶を中興開山の第一世として、住職三十一世、420年に及んでいる。
作州の名僧として誉れ高い泰禅は、本寺第十一世住職であり、隠居後は、長尾山金光坊をはじめ、
多くの寺蹟を遺している。本寺には泰禅が備えた大般若経六百巻や、泰禅木像・爪髪塔がある。
また、本寺で植月小学校が明治8年に開校され、同14年まで仮校舎となっていた。
その頃、後に世界的労働運動指導者として活躍した片山潜も教鞭をとっていた。
